最近、遺言公正証書作成に必要とされる証人の一人として、立ち会う機会をいただきました。ご依頼主さんが手続を済まされた後、大変晴れやかなお顔をされていたのがとても印象的でした。そのお手伝いをされた同業の先輩のお仕事がいかに素晴らしいものであったかを、ご依頼主さんの表情が全て物語っていました。最近導入された公正証書の電子署名を今回初めて経験しましたが、便利で安心できる仕組みになったと思いました。
遺言は、きちんと法的効力のあるものを遺さないと、却って紛争の火種になってしまう諸刃の剣です。確かに費用は多少かかりますが、公正証書化しておけば、原本が紛失するおそれもなく、相続発生時の検認も不要で安心です。仮に遺言を撤回する場合にも、基本的に同じ手段(つまり公正証書)で行うことが望ましいと考えます。なお通常銀行は、家庭裁判所で検認された確認が取れない自筆証書遺言では相続手続きに応じてくれません。
<個人事業主には遺言が必須と考える理由>
私も個人事業主ですが、一般に個人事業主が事業を承継するためには、後継者が開業して、譲渡する人は廃業するという、全く独立した手続が必要です。各種許認可も原則全て申請し直しになります。会社のように先代から後継者への代表者変更で済むわけでありません。
事業承継のタイミングが近づきつつある場合には、個人事業主としての資産・負債をだれかに譲渡するのか、それとも法人化して法人の株式を譲渡するのか、一度検討しておく必要があると思います。事業資産と負債をそれぞれ時価評価して差し引きプラスとなる場合、そのプラス部分を個人事業主が仮に後継者に無償譲渡(贈与)すると、金額次第(2025年12月現在の贈与税年間基礎控除額は110万円)では譲受人側で贈与税の課税対象になります。買掛金等の負債を譲渡するには、当然債権者の事前承諾が必要ですし、譲受人の信用力次第では保証や担保の提供を求められる可能性もあるでしょう(実際の譲渡手続きは、後述する法人化後に事業を移管する場合と考え方はほぼ同じ)。なお法人化する場合には、株券不発行会社とすること、譲渡制限株式としておくことが望ましいと一般的に考えられています。
個人事業主から法人に移行すべきか否かは個別具体的検討を要し、一概には言えませんので全くの私見ですが、個人事業であっても課税売上高が1千万円を超えると消費税の確定申告が必要になりますし、売掛金、在庫等の営業資産と仕入れ債務等の営業負債も当然大きくなることから、法人化を検討されるのが良いのではないかと思います。
仮に個人事業主のままで相続が発生すると、何よりまず相続人の特定が必要ですが、たとえば被相続人が本籍地の異動を繰り返していたり、今の家族が知らない認知済の婚外子がいる等、家族構成や遍歴によっては相続人の特定だけでも大変な作業になる可能性があります。
相続財産のうち、被相続人の自家用車や預貯金等の目に見える個人資産はともかくも、一般に3か月程度と期限の短い営業資産・負債の特定とその決済や回収は、事業規模や相続発生後の組織陣容次第では負荷の重い作業になる可能性があります。被相続人の生前には見えなかった債務が発見されるかもしれません。仕入れ債務のみならず銀行借入れや未払給与・税金等もある可能性が高いです。遺言がないと、相続を放棄するか、相続人間での遺産分割協議が整うまで、資産も負債も全部相続人間の共有(法定相続分に応じた)となります。相続人の特定が完了するまでは誰と共有であるのかも確定できません。また、相続人が相続財産を勝手に処分すると相続を承認したものとみなされ、相続放棄ができなくなります。
しかも屋号付き銀行口座は法人口座ではなく個人口座ですから、口座名義人死亡の通知を受けた銀行は原則その口座を凍結するため、いきなり資金の流れがストップします(なお最近は1金融機関あたり150万円程度まで預貯金を引き出すことができるようになっています)。法人口座であれば、代表者の死去に伴う変更を銀行へ届け出る必要はありますが、(経営破綻状態であるなど特殊な場合を除き)口座が凍結されて資金決済が滞ったりする心配はありません。自然人と異なり、法人には死亡という概念が存在しないゴーイング・コンサーンという考え方です。
さらに相続発生から4カ月以内に被相続人の個人事業の準確定申告をし、相続する財産の金額次第では10カ月以内に相続税申告と納付をする義務も相続人にはあります。
私も個人事業主として1円単位で日々の経理処理をしますが、経験上率直に言って、個人事業主は事業のおカネと個人のおカネの区別をし難い業態です。事業譲渡か株式譲渡かによらず、親子間事業承継であっても、譲渡価格が妥当ではないと評価されれば税務上のリスクが残ります。近年、事業承継を円滑に進めるためのいろいろな税制優遇措置も講じられているので、税理士等に相談しながら慎重に進める必要があると思います。
法人の経営者に一行遺言を薦める著書もあります。「遺言者保有の株式会社○○の全株式を▢▢▢▢に遺贈し、生前贈与した同株式については相続財産に持ち戻ししないものとする。(中小企業の事業承継16訂版 牧口晴一/齋藤孝一 清文社 550頁)」
個人事業主の場合、そもそも譲渡すべき株式が存在しませんので、事業用の資産・負債を含むすべての相続財産の承継について遺言で指定するか、遺言がない場合には相続人間で分割協議をすることになります。相続人間の遺産分割協議が整うには相応の時間が必要ですが、遺留分を侵害せず、法的に有効な遺言によって、事業に関する資産・負債の承継方法を指定しておけば、上述したように権利関係が複雑になることは回避することができると思います(後継者が相続や遺贈を承認することが前提です)。
<法人化の意義>
私見ですが、相応の規模の事業で、なおかつ儲かっているのであれば、事業承継に備えて法人化しておく方が無難ではないかと思います。ただし法人を設立して、事業移管が完了するまでには相応の時間を覚悟しなくてはなりません。
法人化する場合、個人事業主が持つ売掛金や在庫などの営業資産や、設備・建物などの固定資産は、原則、時価評価の上で新設会社へ現物出資もしくは譲渡することになると思われます。そのため、売掛金であれば債務者の承諾を得る、必要に応じて第三者対抗要件を整える、固定資産であれば所有権移転の登記をする、また営業負債等の債務は新設会社が個人事業主に代わって免責的債務引受することを債権者と協議する等、一連の法的手続きが必要になります。個人事業主として保有する債権・債務はできるだけ決済・精算しておきたいところですが、法人に移管しなくてはならない部分をゼロにすることは難しいと思います。
いずれにしても、きちんと帳簿をつけておくことが肝要です。個人のおカネと事業のおカネが混同されがちな勘定科目(事業主借り・事業主貸し・元入れ金=企業における資本金に相当・家計案分等)の帳簿付けはとりわけ重要だと思います。日々帳簿を付け、おカネの管理を厳格化するのであれば、法人化しても実務上の大きな違いはなさそうです。むしろ、法人であれば役員報酬(=個人事業主としてもらっている報酬)を経費処理できる分、メリットが多いかもしれません。「会社の構成員(株主または社員)は、1人であっても差し支えなく、実際にもそうした会社(これを一人会社という)は少なくない。(会社法第5版/田中亘 東京大学出版会32頁)」
副次的ですが、法人化するメリットのもう一つは、株式を信託財産とする家族信託(委託者及び受益者を現経営者、受託者を後継者とする信託スキーム等)を事業承継の選択肢の一つとして検討できることにもあります。
事業承継、法人化、家族信託等いずれにしても、事業の可及的連続性を維持する私たち行政書士の役割のほか、税理士、司法書士、弁護士等の士業専門家のサポートは必須です。事業承継は好むと好まざるとにかかわらずいずれその時期が到来しますが、いつ到来するかは誰にもわかりません。いますぐに事業承継を検討・実行できない場合、最低限の準備としての遺言作成は有効な手段だと思います。個人事業主はもとより、中小企業経営者さんにとっても、事業承継のあり方を遺す意味で遺言を準備しておくことは、BCP(事業継続計画)の一環としても有用だと思います。
当事務所では日々の記帳代行から、個人事業主様による会社設立・事業承継(必要な他士業とのコーディネートを含む)、各種補助金申請サポート、経営者様の遺言公正証書作成のお手伝い等を承ります。お問い合わせはこちらまでお気軽にお寄せください。
出典:国税庁ホームページ 贈与税がかかる場合、消費税
- 参考図書 引用文献
- 会社法(第5版)田中亘(東京大学出版会)31~32頁、99~100頁
- 中小企業の事業承継16訂版 牧口晴一/齋藤孝一(清文社)194~195頁、550頁
- 月刊税理2026年1月号 (ぎょうせい)特集 相続対策にプラスワン 家族信託の活用法