行政書士になったきっかけ

行政書士 田中敬介事務所のホームページをご覧いただき、誠にありがとうございます。特定行政書士の田中敬介です。行政書士になったきっかけを以下に綴りたいと思います。

  1. 行政書士として取り組む主要テーマ

これまで合計11年間、外国人として暮らした経験を経て(Profile)、その素晴らしさも大変さも理解しました。今だから笑い話ですが、ペルーでは不注意で在留カードを失くしたことがありました。奇跡的にお巡りさんが拾って付近の交番で保管してくれていたので3時間後に取り戻しましたが、もし紛失していたらと思うと本当にゾッとします。2023年末現在日本では340万人の外国人が暮らし、200万人以上の方が働いています。必要不可欠な仕事に従事して日本社会に貢献している外国人の方々の一助になれば、自分がかつて海外駐在でお世話になった恩返しになると考えています。そして今後のテーマとして、国家資格としての日本語教員の資格取得を目指しています。

日本の場合、治安面はともかくも自然災害の多さから、企業のBCP(Business Continuity Plan)の重要性は今後益々高まると考えます。BCPが重要な経営課題であることははっきりしていますが、多忙な日々に追われ、実際の計画作りは後回しになりがちです。そのため行政からもBCP策定には補助金等のバックアップがあります。ハードシップ国で勤務し、BCPを喫緊のテーマとして取り組んだ経験を持つ行政書士として、BCP策定に際し、企業経営者の皆様の一助となりたいと思います。また、事業承継も広い意味のBCPであり、銀行員時代に学んだことをベースに、お手伝いできることがあると思います。事業拡大に必要な資金調達や、補助金受給、事業計画作りのサポート等も行っています。

  1. 海外生活からの学び

海外生活では、まず自分と家族の安全確保が第一に求められます。日本で暮らす場合には必要のない緊張感を持つ必要がありました。当時のスペインでは、車を駐車する際、ハンドルとサイドブレーキを特殊な機材で車内でロックすることや、カーステレオの着脱式操作パネルをダッシュボードに隠すことが常識でした。メキシコでは、夜間はもちろん、日中も移動はクルマで、1日千歩しか歩かない日もありました。ペルーでは、時間と場所を選べば徒歩での外出も可能でしたが、強盗の格好のターゲットとなる歩きスマホは厳禁でした。不幸にも身近な人が拳銃強盗に遭ってしまったこともありました。幸い自分自身は無事でしたが、常に緊張感を忘れず暮らしていました。そのような緊張感は必ずしも住んでいる国の中だけではなく、近隣国への出張や旅行でも同様に維持していました。

そうした状況下、コロナが世の中に出現しました。当時駐在していたペルーでは、非常事態宣言が発出され、厳格なロックダウンが敷かれました。街頭には自動小銃を持った軍人が出動し、一般人の外出は、生活必需品の調達時に限って許され、日曜日は家から一歩も外出できない状況になりました。しかし当時務めていた会社では、コロナが出現する前から、リモートワークの稼働訓練をしていたのです。コロナの状況が急激に悪化したとき、問題なくリモートワークに切り替えることができました。まさに備えあれば憂いなしを実体験しました。

また新興国では大規模かつ長時間の停電も普通です。メキシコ、ペルーの両国では、オフィスはもとより、自宅アパートにも自家発電機が完備され、急な停電の不安はありませんでした。現代社会ではスマホのバッテリーが切れることはライフラインの途絶を意味します。

  1. これまでの人生における海外との接点

私は1969年山口県山口市で生まれました。フランシスコ・ザビエルの山口来訪400年を記念して創設されたサビエル記念聖堂に隣接するカトリック系幼稚園に通ったことが最初の海外との接点です。当時の園長先生はスペインの方でした。今から半世紀以上前のことです。

大学入学前、偶然出会った一冊の本で、スペイン語を学ぶ面白さを知りました。ラテン系の言語は動詞の活用が複雑ですが、その代わり、主語を多少省略しても意味が通じます。特にスペイン語は母音が日本語と同じこともあり、日本人には親しみやすい言語です。大学では第二外国語としてスペイン語を学びました。

銀行に就職してからは、スペイン語の世界にどっぷりと浸かりました。1996年4月からスペイン(バジャドリッド市、バルセロナ市、マドリッド市)の3か所に合計3年4か月暮らしました。欧州通貨統合のDay-1、すなわち1999年1月1日のEURO発足に携わったことがスペイン時代の仕事上の一番の思い出です。FCバルセロナのスタジアムまで徒歩圏内に住んでいたときはサッカーの試合をよく観戦しました。1999年7月末に帰国するまで、イベリア半島はもとより、欧州各国を旅行しました。

2005年3月メキシコに赴任しました。メキシコ市は標高2千メートル以上の高地にあるため常春ですが、酸素が低地の75%しかないというハンディキャップがあります。メキシコ市に住みながら、メキシコ国内を出張で訪問しました。スペインを知るものとして、スペイン人がメキシコに遺した光と陰を両方知りました。当時のメキシコは日本企業の大規模な進出が始まる前夜でしたが、その胎動は十分感じられました。新規進出を検討する日本企業のメキシコ視察をお手伝いすることも多々ありました。2008年7月に帰国しました。

2016年3月ペルーに赴任しました。ペルー現地の政治経済情報を日本語に翻訳して毎日発信しました。19世紀後半に多くの日本人が移住したペルーには今も10万人規模の日系人社会があります。背格好やしぐさは完全に日本人のおじいちゃん、おばあちゃんがスペイン語で会話する姿は不思議でした。私のふるさと山口県からも多くの方が移住していて、日系人の山口県人会があります。2016年のAPECでペルーに来訪された安倍首相(当時)との記念撮影の機会があったり、2019年に日本人移住120年を記念して来訪された眞子内親王(当時)との接見機会をいただいたりする幸運にも恵まれました。コロナ禍の最中、2020年6月に帰国しました。

  1. 副業(ご参考)

上述の通り、合計11年間、スペイン語の国に暮らしました。スペインで最初に暮らした場所は、バジャドリッド市という16世紀の一時期スペインの首都だった町です。近くにはスペインの最高級ワイナリーが集積するリベラデルドゥエロ地区があります。バジャドリッド市は、古都サラマンカと並び正統派スペイン語を話す町なので、そこで半年間スペイン語の語学研修を受けました。バルセロナ市、マドリッド市では銀行業務に従事しました。その後、日本にいながらアルゼンチンの公的機関と接する仕事に従事し、メキシコ(かつてのヌエバエスパーニャ副王領)、ペルー(かつてのペルー副王領)に赴任しました。スペインに始まり、スペインにとって2つの重要な海外領土であったメキシコ、ペルーへと続いた地球半周の旅で、私はいろいろなスペイン語に触れることができました。仕事や旅行でも、キューバ、コスタリカ、コロンビア、エクアドル、パナマ、アルゼンチン、チリに行きました。ブラジルでは、私のスペイン語をブラジル人が問題なく理解してくれました。一口にスペイン語といっても、文法や単語、表現がそれぞれの国の文化的・歴史的バックグランドによって異なり、非常に興味深いものがあります。仕事上、スペイン語の現地情報を日本語に翻訳して発信することが多かったので、その経験を活かして、副業としてビジネススペイン語の日本語翻訳もお引き受けしています。(適格請求書発行事業者 事務所概要 General Information

以上 2024年12月更新